脚気は、かつて日本で「国民病」といわれるほど流行した歴史がある。脚気にかかると、神経の障害によって手足が麻痺し、しびれなどを引き起こす。重度になると、心臓に障害を起こして死亡する。
江戸時代、玄米に代わって白米が徐々に普及するにつれ、脚気が広まり始めた。米の胚芽に多く含まれるビタミンB1は、精米によって取り除かれてしまうからだ。その上、当時は副食も乏しく、そもそもビタミンB1は欠乏しがちだった。もちろん当時はビタミンの概念はなく、脚気は原因不明の奇病とされ、白米がいち早く普及した江戸に多かったことから、「江戸わずらい」などとも呼ばれていた。
明治時代以降は脚気の流行がさらに拡大し、年間1万~3万人が脚気で亡くなった(1)。特に、同じ兵食を食べる軍隊内では脚気によって兵士が次々と亡くなり、国家を揺るがす大問題になった。戦傷者より脚気患者のほうが多く出て、壊滅状態に陥る隊すらあった。
海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き、兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させた。イギリスに留学経験のあった高木は、イギリス海軍に脚気がないことに注目し、洋食が解決の鍵であることに気づいたのだ。
一方、陸軍軍医であった森林太郎は、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説にこだわった。
当時、ドイツで細菌学が隆盛し、世界をリードしていた。東京大学からドイツに留学し、最先端の医学を学んだエリート軍医の森にとって、高木の経験則に基づく治療は非科学的に映ったのかもしれない。麦飯が有効とする説が広まると、対抗するようにますます細菌説に固執した。当時の陸軍の兵食は一日に白米六合であり、副食は乏しく、皮肉にも脚気のリスクが極めて高い食生活であった。
その結果、日清戦争では4000人以上、日露戦争では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡した一方、海軍兵士の脚気による死亡は日清戦争でゼロ、日露戦争ではわずか三人であった(2)。海軍の兵員数が陸軍より少ないことを差し引いても、凄まじい差である。
一九一一年に、化学者、鈴木梅太郎が、脚気に効く物質を米糠から取り出すことに世界で初めて成功し、これをオリザニンと名づけた。だが、日本語論文での発表であったため、世界的には広まらなかった。その翌年、フンクによって「ビタミン」が発見され、ようやく脚気はビタミン欠乏症の一つであることが認知されたのである。
こうした経緯から、森林太郎は医学史においてやや評判の良くない人物ではあるが、一般には森鴎外の名で日本を代表する文筆家として広く知られている。一方、ドイツ医学への偏向、研究至上主義に傾きつつあった日本に、実地で患者に接し、治療を行う臨床医学の大切さを広めるため、高木兼寛は一八八一年、医学研究会「成医会講習所」を設立した。これがのちの東京慈恵会医科大学である。
出典:DIAMONDonline,森鷗外 - Wikipedia軍医としての項目