富永しゅうかん 紹介
 

 
執筆当時の富永修侃(しゅうかん)
 

富永修侃著書


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 めまい・
吐き気・不眠
の治療






   
登校拒否・
出勤不能




   

よくわかる
心の病




 

よくわかる
自律神経失調症




 

パクパク食べて糖尿病の治療




 

勉強成績低下・痛み 
不快感
治療




 

日本人
正しい性生活

悩み治療









家庭内暴力
いじめ













めざせ自律神経活性療法師







 



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富永修侃からの助言


【神経症】 【自律神経失調症】 【性】
【心の病】 【血糖が下がらない】
【メニエール】 【突発難聴】

正常状態の延長上にありますので、

人に話しても 『私にもあるよ』と 

理解してもらえません。

だから黙って治すことです。

従来の方法では、「つまらない人生」で

終わってしまいます。





 富永修侃:本名「富永一」
     「修侃(シュウカン)はペンネーム」

マッカーサーの農地解放令(地主から土地を取り上げ小作人に渡す法律)により没落、進学不能となる。

昭和18年母が陸軍師団司令部、司令部のタイピストであったことから守秘のため陸軍病院生まれ。

父の里長崎県佐世保市育ち。父は医師。幼少より、ゆどう術の手ほどきを祖父今村喜太郎先生より受ける。

中学二年生でアマチュア無線技士取得。

後自衛隊無線機等修理に従事上京し新宿の家庭電気店

東京都中野区、中野店長を経て三菱電機で旧丸ビル勤務。

その後電気店で独立したが過労で、自身が「めまい」
メニエールを発病し、整形外科・ハリ・整体と転々とすること

6カ月余。おばさん(今村喜太郎の三女)の一声
「爺さんと似た治療やってる所あるよ」と紹介され、

通い3回で回復した。今村喜太郎先生「癒導術」で全快した(めざせ自律神経活性療法師)に詳解。

宅建主任者、指圧・マッサージの国家資格取得後、海釣りで

通っていた、海に近い横浜へ移住し施療所を開き、研究傍ら

出版する。


大手出版社では、原稿の手直しされ、自分の意図が直接読者

へ十分伝わらないため自費出版にしたのである。

日本癒導医学研究所を主宰し「ゆどう術施療所」を始める。

定年まで「磯子警察署・少年補導員」を務めた。

著書12冊全ては、原稿修正されるのを嫌い、出版社からでな

く全て日本癒導医学研究所から自費出版。

訪問施療先のパン工場会長夫人の次男の、「糖尿」が回復し

たことから、会長夫人から出版を勧められ、

「パクパク食べて糖尿病の治療」を出版した。

その後、大手新聞社広告担当の「0氏」がメニエールで4カ月

入院休業した際、ゆどう術4回目で回復したO氏の勧め

で、「めまい・吐き気・不眠(メニエール)の治療」を発行した。

施療所の千代田ビル解体により、現在の仮事務所で

新事務所が出来るまで

仮に現在住所で「ゆどう術施療・通信講座」を実施中です。









自伝的著書 

 「
めざせ自律神経活性療法師」より



15頁
第二章
自律神経活性療法は、講道館柔道からスタート

16頁
◆自然治癒力を引きだす施療
自律神経の機能低下は内臓(脳も含む) の働きを低下させ、ひいては病原菌にも侵されやすい体質へと変化させていきます。自律神経活性療法はこうした機能の低下した自律神経を目


覚めさせ、体の潔化作さ用を盛んにして抵抗力を高め、自己治癒力を引き出していきます。
実は、私たちが薬で治していると思っている病気のほとんどは、自己治癒力によって治してい

るのであり、薬は自己治癒力を高める作用をしているのです。
それを証明するのは、免疫力を高めれば治る病気なら、細菌性の病気でも薬を使わずに治す


ことができます。例えば水虫、慢性の虫垂炎、膣炎、膀胱炎、ヘルペス、扁桃腺炎、皮膚病の


17頁
一部などには大変効果があります。こうした療法を開発した自律神経活性療法の歴史は、明治時代までさかのぼることができます。故今村喜太郎先生(慶応義塾卒・講道館柔道五段)が


、自身および弟子や知人などの病気予防・治療。健康増進のために施していたものが自律神経活性療法なのです。この今村先生は私の母方の祖父に当たります。祖父に″先生〃と


は奇異に思われるかもしれませんが、それだけ人間的にも技術的にも私に多大な影響を及ぼした人で、感謝の念を現してそう呼んでいます。


ともあれ、明治時代の病気治療といえば、祈祷、温泉、按摩、指圧、鍼灸、漢方薬といったものが中心でしたが、そのなかにあって、自律神経活性療法は飛びぬけて画期的な施療だったといえます。


なぜなら、この時期、明治政府によってようやく西欧文化、科学、技
18頁

術、医学などが導入されて病気の理解も深まり、急速な進展をみせ始めたのですが、それをいち早く取り入れたのが自律神経活性療法だったのです。

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鎖国の長い眠りから覚めた日本では、明治の元勲や高官たちが先を争って西欧文明を導入しようと視察に出かけました。その一行に随員として同行することになった今村先生は、


いち早く科学的な病気の理解、合理的な物の見方、考え方、治療方法を学んで帰国しました。習得した治療方法は柔道場と整骨院(福岡県久留米市西町一、二四七) の開設で、患者の施療と弟子の養成に役立てられることに


なったのです。後年、関東大震災を経験して先生はさらに人体の生理や病気の理論、心理学、衛生栄養学といった総合的な研究に成果をあげ、これらに基づく独自の施技を完成させて


いきます。これが自律神経活性
19頁

療法です。しかし、今村先生の技術の恩恵を受けることができたのは、東京から居を移した久留米市の先生の柔道場「神武館」にかかわりのある人たちに限られていました。


◆関東大震災が癒導術を完成させた
自律神経活性療法を完成させていくきっかけとなったのが大正十二(一九二三)年の関東大震災でした。死者および行方不明十三万人余、焼失家屋四十万戸余といわれる歴史に残る


大災害です。このとき今村先生は品川の柔道場、診療所、さらには自宅も失いましたが、けが、骨折、精神混乱とみられる人々であふれる地獄絵図のような街中で、無料で献身的な施療
を行いました。


こうした施療症例が一挙に自律神経活性療法を完成に導くことになりました。というのは関東大震災では、けが、骨折、病原菌によ

20頁
る病気や伝染病の他にも、地震や火災、伴侶や子どもの死、恐怖、過労からくる人間関係の不調が自律神経に多大な影響を与え、それが病気の原因となることを明確に観察記録し、



論理的に裏づけたからです。そのとき今村先生の観察記録には、「自律神経機能低下症はストレス、過労が引き金となって発症し、初期にはめまい、こり、しびれ、あるいは不快な気分に


陥ったり、記憶することが困難になったり、吐き気などの症状を現す」とはっきり記されています。さらに症状が進むとイライラしたり、極端に音をうるがったり、攻撃的な話し方をしたり、


潔癖症になったり、歩行困難や外出不能などを生じるとしています(この段階が神経症です)。
こうした状態を過ぎると、心身症や″心の病″といった精神障害を起こし、登校拒否、
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出勤不能、対人恐怖、不感症、冷感症、勃起
21頁

不全といった症状が現れてくること、さらに夜を怖がったり、対人関係に異常なほど緊張したり、人が悪口をいっている、人がつけてくるようで不安でたまらないといった妄想症状が現れて


きます。各症状がひどくなってくるとてんかん症状、自閉症、被害妄想、分裂症といった特定の病名がつく重い症状になってくるのです。


関東大震災の当初は重傷患者の接骨等の施術に忙殺され、軽度のこり、痛み、まひといった症状の人は施術を行うことはできませんでしたが、その後の追跡記録で、「このとき受けた


自律神経機能低下症が原因で生涯にわたって神経、精神障害を誘発することもある


ことが判明した」と、その詳細を記しています。また、骨折で治療を受けて良くなった人たちが、その後も人生相談などの悩みを打ち明けに接骨院を訪れ、身内の他界や仕事が見つからな


いといった気落ちから下痢、歩行障害などを起こし、それが
22頁

悪化すると難聴、失明、失語といった重大な障害にまで発展することもわかりました。このように、生死にかかわる状態ではなくても、ストレス、過労が重大な障害をもたらし、後々まで

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人々を苦しめることが追跡記録によって明らかになっていったのです。
◆体験的に学んだ西洋医学

化膿、損傷といった目に見える症状から発生してくる機能的障害(器質的障害) はわかりやすいものですが、外見上は体調に何の変化もないのに、体の働きそのものが悪い機能的障害は


、臓器を働かせる神経の障害から生じるためにわかりにくい面があります。そうしたわかりにくい症状に対して、ていねいに追跡記録した先生の熱意には頭が下がります。


23頁
当時は薬による治療にしても、当然のことながら限界がありました。そのうえ、ストレスからくる自律神経の乱れがこり、痛み、しびれ、まひといった症状を発生させ、二次的に病原体に


侵されやすい体質へと変化させ、それが生命をも危うくする病気にかかりやすくすることまで時間をかけて記録したのです。こうした事実は当時の医学では解明されておらず、このとき


初めて体験的に知りえたことでした。今村先生はその後、患者さんに生活指導を行ったのですが、まだまだこうした病気に知識と理解のなかった時代です。精神障害者には死んだ人や


身内の霊魂がとりついたのだと信じ、祈とうやまじない、お払いが大流行したといいます。「専門家の懇切丁寧な指導が必要で、手間と時間のかかる病気であることを痛感した」と記録に
あります。

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ともあれ、関東大震災が契機となって、自律神経を刺激して機能を高めることによって全身を支配している臓器(脳) の働きを活性化し、治癒へと導く自律神経活性療法(癒導)を完成し、


命名したのは今村先生の力です。それが先生の長男の國雄叔父に引き継がれ、私へとバトンタッチされ今日にいたったのです。自律神経活性療法(癒導) のような大正時代の西洋医学は


古いと思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、手指は十本、日は二つと、私たちの体は何千年と変化していません。これから新たな病原菌による病気が発見されることは


あっても、病原菌以外の慢性的な病気は、体の構造に違いがない以上、本質はまったく変わ
らないのです。最近では阪神大震災でPTSDが注目されました。


PTSDという言葉は新しくなりましたが、その実態は何も変わっていないことは明らかです。

25頁
第三章
自律神経活性療法と富永修侃の履歴書


26頁
◆じいさんの手は″魔法の手″
私は子どものころ、学校が休みになるといつも母方(次女・喜代子) の実家である福岡県久留

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米市西町1247番地の「今村接骨院」という看板を掲げたじいさん(今村喜太郎先生) の所で
過ごすのが常でした。興味津々で施術室を覗いたり、整然と本が並べられた大きな物置でとり


とめもなくページをめくって遊んだことを覚えています。
この今村接骨院には二十歳くらいまで出入りした思い出深い場所です(先生は昭和三十八年


没)。私が物心ついたころのじいさんは講道館柔道五段、北辰流後継者八段の有資格者で
した。柔道大会があると私はじいさんに手を引かれてよく会場に連れて行かれたのもです。


そんなとき、私は審判員席に座らせられ、周囲の立派な髭の老人たちに声をかけられて返事
27頁

に困ったり、面映ゆいような思いでじいさんを眺めていたことを覚えています。会場の雛壇の下ではじいさんが赤と自の審判旗を左右の手に持ち、選手の激しい動きどともに右に左に


動き回り、寝業では選手を覗き込んだかと思うと片方の旗がサッと上がり、1本、それまで」と
普段は聞かないような鋭い声をあげるのを、「すごい!」と思って見ていたものでした。

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当時のじいさんは毎晩、晩酌しながらその日一日あったことをぐたぐたと独り言をいうのが常でした。そんなとき、私は近くで居眠りしたり、空あくびをしたり、狸寝入りをしながらその独り言を


聞くともなく聞いていました。じいさんは時間に厳格な人で、八時半には喜多流の謡曲をうなり、九時には寝床へ入ってしまうのです。


「今村接骨院」に通ってくる人の中には、気のふれている人もいました。
28頁

今で言う失調症や″心の病″といった人たちでしょう。接骨院の看板には「骨接ぎ」と書いてあるのに、何でそういう人が来たり、その人たちが元気になっていくのか不思議に


思ったことを覚えています。接骨院のある久留米市はプリヂストンタイヤ発祥の地で、会社の
役員といった人も頻繁に顔をみせていました。そんなとき、お土産に持って来てくれるのは、


タイヤの見本の灰皿が多かったものです。また、じいさんの長女の一房江叔母が日赤病院の婦長だったこともあって、ァメリカの軍人さんも顔を見せ、クリスマスカードなどをもらったこともあります。


こうした人たちが集まる施術室では施術とは名ばかりで柔道の話に夢中という人もいました。また、「今村接骨院」は早く治してくれるという評判から久留米の競輪の選手、柔道選手など、


29頁
スポーツ選手もたくさん施術を受けに来ていました。なかには初回で「痛い痛い」とうめいていた人が、施術室でじいさんが「ほうら、ちょっとチクッとするよ」という声とともに患部を回したり


引いたりしたとたん、「アッ」と一声発し、痛みが去ってケラケラ笑い出す人がいたり、「イヤー、楽になりました」とびっくりする人がいたりで、施術室は毎日がのどかで、にぎやかなものでした。


そんな風景を行く度に覗き見していた私には、じいさんの手は不思議だなと思ったり、魔法の手だなと思ったりしたものです。


◆今村喜太郎先生と叔父叔母の宝の発見

先生が亡くなった後、今村接骨院は國雄叔父が相続し、國雄叔父が亡くなった後二房江叔母が相続しました。その一房江叔母の葬儀の

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30頁
ことはよく覚えています。ちょうどその家が都市計画道路予定地で、取り壊される寸前のことでした。最後の思い出にと、小さかった従兄弟たちと西町の昔の家に行ってみたのです。


取り壊しを前に家財道具を近所の人たちに譲った家はがらんとしていました。「今村接骨院」を継いで叔父、叔母が働いていた施術室も片付けられていて、そこにポツンと懐かしい


今村先生の椅子がありました。そのとき、 ″宝探し″称して小さいころ近所の友達と遊び場にしていた物置小屋も覗いてみました。そこにはたくさんの古本が山積みになっていました。


そのなかに大妻コダカ著『家庭全科』を発見しました。私が幼いころ、叔父叔母たちの医学、栄養、衛生などの知識は豊かで、話の内容はわからないまでも「よく知っているな」と感心し、


不思議に思っていました。そのとき、多分、その知識の
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源泉がこの本にあるのだろうとひらめいたのです。葬儀の後、自宅に持ち帰って読んでみると、なるほど、基本的な知識の根幹はこの本であると気がつきました“読んでいるうちに私に


話してくれた先生や叔父叔母の話の数々がよみがえってくるようで、それは懐かしいものでした。こうして幼いころから自律神経活性療法の入回は垣間見ていたものの、


それが後々の私の人生そのものと重なることなど、このときは想像もしませんでした。
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◆人生の師″を求めて東京ヘ

私は昭和十八年、久留米の陸軍病院で生まれ、終戦と同時に長崎県佐世保市(現在のハウステンボス近く) の早岐に移り住みました。


父の実家は『忠臣蔵』でお馴染みの兵庫県赤穂近くの「富永」という地から発した地方豪族らしく、富永家過去帳(菩提寺所蔵)

32頁
終戦までは家から見える山という山、田畑という田畑を所有していました。しかし、GHQによる農地改革でそのほどんどを失い、家の周りの少しの田畑と、


いくつかの山々が残されました。父はそこにある三百年を経た古い家を相続したのですが、建て替えたくてもこの家から嫁いだり分家した人たちの心の拠り所となっていて、そう簡単には


いきません。代が変わるまで待機しようということになっているようです。父は農業と無償で医療をやり、私に継がせようと強制していまいしたが、私としては志を変えられず


高校を卒業すると同時に家を出ました。 一年間農林省久留米園芸試験場にいた後、北海道に渡り自衛隊で戦車積載の無線機修理に従事しました。そこで二年間ほど過ごすと、 


 ″人生の師″を求めて東京へと出てきたのです。二十一歳のころです。・


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